自家製太麺とキャベツ・もやしを特製ソースで炒め、粉チーズで味付け。
白生姜(紅生姜じゃないのがミソ) を添え、特製トマトソースをかけて提供しています。
初めて見る人は「なに、これ?」って思うかも。
麺の見た目や歯ごたえは焼きうどんのよう・・・でも、中華麺なので「焼きそば」なのです。
なぜかトマトソースが合うんですよ。
フォークで食べるのもおもしろいでしょ?
他にも定番ではカレーソース・ホワイトソースなどがあり、季節によって別バージョンが出ます。
もやしとキャベツがたくさん入ってるのでビタミン・ミネラル・食物繊維などが多く含まれていて、特に女性のお客様に喜ばれているようです。
毎日食べても飽きない味・・・という点でも、「イタリアン」かもしれませんね。
(イタリアの日常食、つまりイタリア料理って、毎日食べても飽きないそうですから。)
イタリアンを始めた頃の麺は自家製ではなく製麺所から購入したものを使っていました。
ですので太さは普通の焼きそばの麺と同じだったんです。
その後 麺を自社工場で作るようになり、時間が経っても伸びにくい麺にしたいということで試行錯誤の末、現在のような形と太さの麺になったのです。
イタリアンの上にかかってるトマトソースを、「ケチャップ」だと誤解されることがあるようですが、そうではありません。
たしかに材料の中にケチャップは入っていますが、300kg作る内の1kg 程度しか使っていないのです。ほとんど隠し味ですね。
イタリアンのトマトソースの主な材料は「トマトペースト」です。(トマトペーストとはトマトを裏ごししたものです。)
では、あの甘味は何なのか・・・?
それは玉葱をじっくりと炒めた<甘さ>なのです。
昭和34年、箱根の「商業会セミナー」に参加していた三日月晴三は、東京の京橋の繁盛店『中ばし』さん (現在は閉店)に「帰省の前にウチに寄っていけ」と誘われました。
中ばしさんは <甘すぎて申し訳ありません>という当時有名なキャッチ・コピーで甘味処を経営されていたのですがお店で軽食も販売することになり、関西のお好み焼き店で焼きそばが人気だったことに着目し、焼きそばを売り始めました。
ただ、関西のように『お客様が自分で焼く』というスタイルではなく『店員が焼いてお客様に提供する』という東京風のやり方に変えました。
当時三日月は甘味喫茶で、主力商品は 「あんみつ」「アズキアイス」「関東煮=カントダキ(おでんのこと)」などであり(特に当時のおでんは赤ちょうちんでしか食べられないもので、女性は気軽に食べられるものではなかったので人気があったようです)、軽食も始めようと考えていた時でした。
ちょうどその頃、東京の浅草・田原町付近の『もんじゃ焼き』のお店でも「ソース焼きそば」が流行していたこともあり、それならば焼きそばを! と思いました。
しかし、普通の焼きそばでは面白くなかったので『ミートソースと粉チーズをかけて、フォークで食べる』というスパゲティ風で おしゃれなスタイルのまったくオリジナルの焼きそばを考えだしたのです。
そして提供方法は『中ばし』さんのやり方を取り入れたのでした。
焼きそばのソースは発売当初から東京の老舗ソース会社さんのものを使っています。
ですので、みかづきの「イタリアン」は実は東京風なのです。
小判型の銀色の皿 (ステンレス)に盛りつけ、紅生姜ではなく白生姜を添えて提供し、 名称は当時の喫茶店で売られていたナポリタン (スパゲティ)に対して、『イタリアン』とネーミングしました。
昭和35年当時ラーメン1杯70円のところ、イタリアンは1杯80円で販売していました。
漢字の「三日月」から「みかづき」に社名変更したのは昭和47年です。
長岡の「フレンド」さんと「みかづき」両社の当時の社長が親友だったことで、少し遅れて フレンドさんも『イタリアン』の販売を開始しました。
ただ、同じ名称で同じような仕様になっていますが 味や内容は違います。
昭和39年に起きた新潟地震の時、インフラの復旧でガスが最後になりました。
電気、水道が通った時点で店を開けたのですが、都市ガスが使えないのでプロパンガスのボンベを使いました。
店が校区になっている小学校・中学校でバザーが行われることになり、みかづきも呼ばれて当初店で作ったものを持ち込むということになっていたのですが・・・
そこで当時の社長 (三日月晴三のこと。以下「社長」と表記)の「おもっしょねぇ!」の一言が!(新潟弁で「面白くない」の意味)
そして「気にいらねぇわ!」と。
「温かいものを提供したい!」との思いから、店でも使っているプロパンガスを持ち込み、現地で鉄板で焼いて作って販売することになったのです。
(新潟市で、バサー・文化祭で販売する食べ物を「現地で作る」というのを始めたのは みかづきが最初でした。)
温かい・出来立てのものが食べられるということが評判になり、その後あちこちの「バザー・文化祭」からお呼びがかかり、ご利用頂いたことで皆様に愛される商品になりました。
初めの頃、容器は屋台などで使われるような白い四角いパック (焼き鳥や赤飯を入れるような入れ物)を使っていたのですが、これにもまた社長の「おもっしょねぇ。気にいらねぇわ!」が。
そういう形の入れ物だと蓋の部分にミートソースがくっついてしまうからです。
当時 店では小判型の銀色の皿 (ステンレス)を使っていたので、お土産の容器も『小判型』で『高さがある』『冷めにくい』ものにしたいということになったのです。
もちろんそのようなものは市販品にはありませんでした。
周りの「過剰投資になる」という声を無視して、社長は自らが作った木型 (キガタ)を元に、引き受けてくれる会社を探し、金型 (カナガタ)から作ってもらい無事オリジナルのお土産用容器が出来ました。
現在は店内でもこの容器を使用しています。
その後電子レンジの普及により、お土産にして冷めてもこの容器のまま ご家庭で手軽に温められるようになったので、現在は「バザー・文化祭」の現場ではほとんど作らなくなりましたが、「温かいものを!」の考えは変わっておりません。
(下記の文は三日月晴三から聞いた話をもとにしています)
◆盟友フレンドさんとみかづきの関係について
写真はペリカンクラブ様より
フレンドさんの創業者・*木村政雄氏(きぃさん)と 三日月晴三(みかさん)が初めて知り合ったのは昭和三十二年頃、商業界のセミナーで場所は箱根湯本。
*倉本主幹の教えを深夜まで受け、下駄の音を響かせながら宿に帰った。
その頃は主幹講議の後 それぞれの業種ごとに部会となって色々な議論がされていた。(当時は飲食店の参加者は少なく、菓子部会に混ぜてもらった)
車座になって、 弁説爽やかな 訛りなど気にしない元気な方々の体験談を しょうしがり (新潟弁で「恥ずかしがり」の意味)な越後人の二人は聞いているばかりだった。
そんなある時 車座の部会に誰かが持参してきたウイスキーの瓶が回ってきたので、木村さんとの間に暫く止め置いて半分以上も空けてから 『雪国の人間で、引っ込み思案のおれ達にも喋らせてくれ』と発言し、ようやく仲間と認知された二人は友情をあたためていったのだった。
いろいろな国内のセミナー・会合にも誘いを受けて気軽に出かけて行ったのだが、大変だったのが昭和四十二年頃に何度かあった「飲食店チェーン化」チームの米国視察の旅で 、ハンバーガーばかり日に15個以上も試食したりしてシステムの勉強をした。
外国の事など何も知らない三日月は木村さんだけが頼りだった。
また市場視察レポートを書くため 二人で夜間に店舗の見学に出てタクシー移動をくり返していた時、拾ったタクシーに乗ったら雲を衝くような大男の 黒人運転手で、行き先の宿『ダウンタウン・ホリデーイン』の発音が小さいと 何度も大声で言い直され、密室でもあり恐い思いをしたことなど思い出は尽きない。
--このような友好な関係は世代が変わった今でも変わっておりません。--
『参考』
*倉本長治(故人)商業界主幹 戦後の混乱期に荒廃し針路を見失った商人に 在るべき道筋を説いた商業の父とも言える方。
今日の大規模小売業の大多数が この陶酔を受けたものと思われる。
*木村政雄氏(故人)フレンド創業者。
これは幻の「イタリアンチケット」です。(笑)
社員でもなかなか手に入れられません。